原田景子

仕事においても生活においても「写真をとることが自分の存在証明」。原田景子さん(30)は15歳のときにアラーキーこと荒木経惟の写真に出会ってカメラを手にし、その15年後には自身も雑誌の表紙も任されるほどの写真家になっていた。生まれてから今に至る私生活の環境、人間関係が現在の写真家としての原田さんにすべて繋がっていて、仕事と生活を切り離して彼女をみていくことは決してできないだろう。「日々の仕事に翻弄され、多忙な日常に埋没するのだけは嫌だ」と話す彼女だけに、好きなことを仕事にしていることは厳しくても、とても幸せなことだといえるに違いない。(文責・富永怜奈)

自由な校風の中学校でひらく個性

芯があって他人に媚びない。

大阪で過ごした小学校時代には勉強がなまじ出来たがゆえに先生から特別扱いされ、「勉強が出来るからって私だけえこひいきすんな!」と先生に鉛筆を投げたこともあった。

自分はふつうの人だという感覚はつねにあるが、昔から自分のものさしを大事にしている。

受験をして東京の中高一貫の私立女子校に通いだしてから原田さんには変化がたくさんあった。

小学校は学校に「行かされている」というのに対し、中学は「自分で選んで行っている」という意識がありそれだけでも心地よかった。

しかもこの学校が折しもとても自由な校風で、個性的な生徒も多く、何かを自由に発表したり行動できる雰囲気。その「よすぎる」環境を生かしながら、原田さんは我が道を進んでいく。

「学校が違ったら今とはまったく違う人生を送ってたと思う」。

小学校から続けていたトロンボーンを通じて、原田さんは同じ部活のとある先輩と出会う。彼女はジャズバンドを組んでいるかっこいい先輩で、原田さんをとても可愛がってくれた。

「先輩から誕生日にサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を貰った」なんて、まるで青春映画のようだ。その他ファッション、カルチャー全般教えてくれたのもその先輩で、生活に楽しみを与えてくれた。また音楽との出会いも大きかった。

フィッシュマンズスチャダラパー、当時流行っていた小沢健二などJポップにのめり込み、音楽や文学の趣味も合うNちゃんという友達ができた。

それまで趣味の合う友達がいなかったこともあり、この出会いは原田さんの今後に大きな意味を持つようになる。

写真へ没頭。きっかけは「かっこいい人」とアラーキー

写真との邂逅もそんな中学3年のときだった。

「武蔵野美術大学の文化祭でかっこいい人が白黒写真を売ってて」写真っていいなと思った。それに加えて、母親に薦められたアラーキーの写真集を実際に立ち読みしに行ったら、涙が流れるほど感動した。ちなみに写真を見て涙が出たのは初めてだった。

そしていつしか原田さんも写真を撮る側になっていた。

「なんとなく自分は写真家になるという気がしていた」。

叔父から貰った一眼レフを毎日持ち歩き、出来上がった写真はいつもどれも「思い通り以上に」よく撮れていた。もっといろいろ撮ってみようと撮れば撮るほど思い通り以上によい出来で、原田さんは夢中でシャッターを押し続けた。

そして高校生活最後の文化祭では自分の展示コーナーを作って写真を発表した。Nちゃんは自主制作映画を上映していたし、まったくもって文化度の高い女子校である。

「Nちゃんの映画のスチールを撮ったのがみんなに喜ばれたのがとても嬉しかった」。初めて自分の選んだこと、つまり『写真』を通して友達が喜んでくれたからだ。それがきっかけで「人を記録しよう」と思うようになったという。

何かを表現したいと思ったときに、表現の手段を見つけ、自由に表現できる環境もあり、理解してくれる人たちに恵まれ……ある意味ふつうの高校にはなかったかもしれない最高の土壌の中で、原田さんは思うがままであった。

卒業後はアラーキーについての卒論が書きたいがために大学に進んだ。

青春を謳歌した大学時代。しかし、スランプに・・・

私服にお化粧、大学は初めてのことだらけだったが、今までと1番変わったのは当時の音楽カルチャーが自分のライフスタイルに密接に関わるようになったことだ。

Nちゃんら中高時代の友達と、音楽雑誌の編集長が主催するオールナイトDJイベント「ROOKIE TONITE」に繰り出すようになった。大学の授業ではATGの映画を初めて知り、ファッションや美術など、60年代カルチャーに没頭した。

友達にも恵まれ趣味も充実し、しかも授業も面白い、そんな毎日が楽しくてたまらなかったという。

しかしスランプは卒業後にやってきた。就職も決まらないし卒論の出来もいまいちで、そのまま大学院に進んだ。

ぼんやりとした不安、迷い、写真のスランプ。

人ともうまく関われず、心療内科で処方された薬を飲んでも具合が悪い日々。

薬の副作用で日がなぼんやりしていたこと以外、当時のことをあまり覚えていない。その後、自分に合った医者を見つけてからは、波はあるものの自分の身体の不調にどう向き合うかが分かって来た。日に日に楽になり、無事修士論文を書き上げることもできた。

着実に進んでいく写真家の道

その後は写真の専門学校で技術だけ盗むだけ盗んで、堂々と「写真家」と名乗って活動していくことに。

そのころ出会ったインディーズのバンドのライブ写真を撮る機会を得て、初めて友達じゃない他人に自分の写真を認めてもらえたことも前に進むきっかけとなった。

ブライダルカメラマンの仕事も得た。

そこでは写真を「依頼されて」撮ることと「自分から」撮ることの違いを実感しショックも少なからずあったが、「ここで辞めたら次のステップに踏み込めない。やるしかないって思った。無職だし」と踏ん張ることに決めた。

そのうち劇団の撮影などブライダル以外の仕事が舞い込むようになり、今では語学雑誌で、来日したスターを撮影しそれが表紙に使われることもある。

先日、台湾に行った際、街中の広告に自分の撮影したことのある俳優の顔を見つけて驚いたそうだ。

また、ライブ写真の撮影の経験を生かしてミュージシャンのライブを撮る機会も得た。

「ライブアルバムのジャケットに自分の撮った写真が選ばれて嬉しかった」。

スランプを乗り越えて、着実に、というか見事に写真家としての道を突き進んでいる。

目標は自分の「色」を求めて仕事の依頼が来ること

「毎回落ち込むことはある。新しいことをやったら100個落ち込む」。

今まで思い通りにいくツールだった写真が思い通りにいかなくなることがあっても、とにかく次頑張ろうと思うようにしている。

報われるのはどんな時?

「無理だと思っていたことを気づいたらやっている瞬間。表紙なんて無理って昔は思っていたのに、撮ってる自分がいる。仕事の成長は、考え方の訓練が出来ていくことなのかもね」。

目標は自分の「色」を求めて仕事の依頼が来ることだ。

「出来ないとは思わない。今までもそうだったように、今の課題をこなしていったらいつかそこにいるんじゃないかって」。

原田さんは「自分に甘い」と言うが、自分を信じて写真に真摯に向き合う姿はむしろストイックだ。

それでいて生活をおろそかにせずちゃんと楽しむ軽やかさを備えている。

原田さんの写真には、そうした生活の中で得た生き生きとした潤いが反映されていて、物語がはじまりそうな予感に満ちている。

「今でも自分は波があるし客観的に見たらマイノリティーっていうのはわかってるけど、奇人変人の類いではないと思う。わたしにとってのふつうは、日々想像力を働かせること。それは人間が共に生きていくために必要なことでもあるね。何事に対してもひとりよがりにならないように心がけたいな」。

謙虚だけれど堂々としている彼女の強気の裏には、他者に対する思いやりと優しさが溢れている。

座右の品
オリンパスOM-1

おじさんにもらってはじめて使い込んだ一眼レフ。
一代目は使い倒してしまい、二代目の一品。
こちらも使いすぎて壊れてしまいましたが、思い出に残してあります。
おじさんの真似をしてカッティングシートで本体の革を張り替えてあります。

【略歴】

1980年1月11日生 東京都出身・在住 大阪府枚方小学校→東京都小金井市立前原小学校→私立桐朋女子中学校→同高校→明治学院大学文学部フランス文学科→同大学大学院文学研究科フランス文学専攻→日本写真芸術専門学校中退→フリーランスの写真家【血液型】O型【星座】山羊座【家族構成】父母姉【趣味】テレビ、読書、文化全般【お気に入りスポット】横浜【尊敬する人】家族・友人【好きな食べ物】すっぱいもの【嫌いな食べ物】白子【好きなタイプ】尊敬できる人【苦手なタイプ】曖昧な人【座右の銘】「眠いときには寝たらいいよ」(祖父の言葉)【子供のころの夢】作家

【ホームページ】「らっこフォト」→ http://www.raccophoto.com/

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