打楽器王の「転職」のふつう

パーカッション奏者 加瀬田聡さん

パーカッション、それは打楽器の総称。テーブルだって何だって、叩けば音が鳴り、楽器となる。実際、ブラジルではそろばんを楽器として使っているらしい。そのような意味で「すべてのものはパーカッションである」といえる。チャッカ、ポッコ、チャッカ、ポッコ……。少年時代、そんなリズムに魅せられた一人の男がいる。ただ、彼がほかのミュージシャンたちと少し違うのは、ミュージカルに参加し、デビューする直前までは「サラリーマン」だったということだ。サラリーマンからプロミュージシャンへの転職。近年、休日などを使って仕事とは別の活動をする人は多い。さらに、技術の進歩やさまざまなツールの誕生で、個人がアマチュアのままでも作品を世の中へ発信することが容易になった。そんな時代に、それでも“プロになること”とは? 今回はそんな現代の「転職のふつう」に迫ってみたい。(文:吉田直人)

“究極の趣味”だった音楽活動

パーカッション奏者として活動している加瀬田聡さんは、父親の影響で幼いころから打楽器に興味を持っていた。地元の祭りで聴いた、山車(だし)の「チャッカッ、ポッコッ」のリズムが彼の原風景だ。

現在、10以上のバンドに参加して活躍しているが、当然のごとく最初からプロミュージシャンだったわけではない。それどころか、「プロになるつもりは全くなかった」のだという。

加瀬田さんいわく「音楽は“究極の趣味”」。大学を卒業後は大手企業に就職し、名古屋で四年間、サラリーマン生活を送っていた。打楽器に興味を持っていたものの、子どものころの夢は電気屋さんだった。「(電気屋さんと)関係ある仕事に就けたので、その夢は叶えられたって思っているんですよね」。それでは“音楽”はいつ始め、どのように活動してきたのだろうか。

太鼓のリズムが好きだった加瀬田さんは、地元の祭りや鼓笛隊で太鼓を叩く「太鼓少年」だった。最初にバンド始めたのは中学時代、当時はハードなロックを演奏していた。「友達に『お前、太鼓やってるんだからドラムやれよ』と言われて。BUCK-TICKやBOOWYのカヴァーをやっていました」。

高校時代は、空手をしながらもバンドは続けた。「スタジオなんて入らなくても、うちの地元は田舎だから友達の家のプレハブで思いっきり音を出せたんですよ」。埼玉の地元が大好きだといいながら見せてくれた写真は、携帯電話の小さな窓から覗いてもはっきりとわかる緑と青の世界だった。

「そんな田舎だから、まわりにプロのミュージシャンなんていないんですよ。それ(音楽)でご飯を食べていくなんて考えが、現実とかけ離れすぎていて、思いもしなかった」。例えるなら「女優と付き合う」とか「宝くじで一等が当たる」などと同じように、プロミュージシャンになるということは現実と乖離しすぎていた。ビヨンド・ヒズ・アンダースタンディングな世界の話だったのだ。

“コンガ”との出会い

大学へ入学すると「ジャズをやってみたい」と思い、ビッグバンドのサークルに入った。

加瀬田さんは、そのサークルの部室で運命の出会いをすることになる。人生とはときに、安い映画のようにドラマチックだ。「まさかぁ、そんなうまいタイミングで?」と、そんな言葉が聞こえそうほどにパズルのピースがきっちりとはまる。後に彼をプロミュージシャンへと変えていくその運命の楽器は、サークルの部室で静かにこの出会いを待っていたのだ。待ちにまちわびすぎて、何年も前のOBが置いていったその楽器は、もはや部室内のテーブルと化していたほどだ。それでも、とにかく、この出会いはその後の彼の人生にとって重要なもとなる。

「コンガ」という未知の楽器に興味を抱いた加瀬田さんはその後、コンガをやるべく、先輩の紹介で、ラテンジャズをやっているサークルへ移った。

そのサークルは「米米クラブ」のメンバーをはじめ、多くのプロミュージシャンを輩出していることで有名な本格派。練習はかなり厳しいものだった。パーカッションをやること自体初めての加瀬田さんには、まさに血のにじむような努力の日々の到来。「音楽人生で一番練習をしたとき。まわりは子どものころから音楽の英才教育を受けてきたような人たちばかりで、ロックバンドあがりなんて僕と、あと一人くらいしかいなかったな。BUCK-TICKとかBOOWYなんて言っても、(まわりと)話が合わなかったですね」と当時を振り返る。

そんな環境へ身を置きながらも“究極の趣味”という気持ちは変わらなかった。「一つの楽器ができるくらいではプロにはなれないのでは?って思っていました」。

先ほどの例えでいうならば、「俺、ちょっとモテはじめたけれど、女優とかモデルさんとかとは付き合えるわけがないよな。あー、ごめんなさい、大丈夫、大丈夫!調子には乗りませんからっ」というような気分だろうか。

加瀬田さんは、他の多くの学生と同じように就職活動をして、きちんと内定をもらい、卒業後は大手企業に勤めるのだった。

加瀬田聡

気持ちの変化。そして、キューバ音楽との出会い

「音楽は趣味」そんな気持ちに変化が生まれたのはいつだったのか。

「社会人になって仕事にも慣れてくると、生活に余裕が出てきて。そうしたらバンドがしたくなったんです」。

故郷の埼玉県を離れ、名古屋に赴任していた加瀬田さんには知り合いが全くいなかったため、ネットを駆使してバンドメンバーの募集を探した。“究極の趣味”であるバンド活動にはお金がかかるが、そこは独身貴族の会社員だった加瀬田さん。「東京出張の度に楽器が増えていきました」と笑って当時を振り返る。様々なバンドに参加して徐々にコンガ以外の楽器も演奏するようになる。「コンガ以外もできるじゃん!」プロになれるかもしれないという自信を持ち始めたのはこの頃だった。「まぁ、調子に乗り始めたんですね」。

この頃、もう一つの運命的な出会いがあった。キューバ音楽との出会いである。キューバ音楽を演奏しているバンドに、当初、加瀬田さんはそれと知らずに参加したのだが、キューバ音楽に触れるうちに、キューバに対する憧れが湧いていった。「キューバへ留学してたい」そう思った。もちろん留学となると多額の資金が必要となる。しかし、そこはサラリーマンで収入のある加瀬田さん「金を貯めれば海外にだって行けるぞ!」と思った。仮にプロミュージシャンになるとしたら、何か“ハク”がほしいと考えていた彼の頭には「キューバ行き」という新しい考えが浮かび始めていた。

『ライオンキング』へ参加。サラリーマンから「プロミュージシャン」へ。

“サラリーマン”と聞いて、どんな人をイメージするだろう。

決まった時間に出社して、定時に退社でき、余暇の時間を飲み会や趣味にあてることができる、平凡だが安定的な毎日を送っている。そんな人をイメージするだろうか。または、いやいや、今の時代そんなお気楽なサラリーマンなんていないぞ、月何十時間ものサービス残業に、きついノルマ。趣味や家族サービスそっちのけで仕事一筋に頑張ってもなかなか給料が上がらない搾取される存在……そんな人を思い浮かべるだろうか。会社に雇われて、仕事の代価として月々のサラリーを受け取っている人を「サラリーマン」と呼ぶのだが、そのイメージは、画一的に捉えることは困難になってきている。さて、加瀬田さんはどのようなサラリーマンだったのだろうか。

「仕事をしながら12個ものバンドを掛け持ちしていました」。忙しいときには仕事の途中でトイレに立つふりをしてライブに出演し、夜中にオフィスに戻って朝まで仕事をしていたというからすごい。それが彼にとってのサラリーマン生活だった。

キューバ行きを考え始めていた加瀬田さんに思わぬチャンスがめぐってきたのは、そんな「二足のわらじな音楽活動」を忙しくこなしている頃だった。パーカッション奏者に欠員が出たため、「劇団四季」の有名なミュージカル作品『ライオンキング』へ出演しないかという話がきたのだ。「正直迷いました。もう(気持ちは)キューバを見ていたので」。ただ、そのとき彼は思った。

「日本のプロも見てみよう」

こうして加瀬田さんはプロミュージシャンへの道を本格的に歩き始める。

「会社をやめて『ライオンキング』をやります」。そう切り出した彼に上司は「『ライオンキング』って…。そんなの一生やっていけないだろう」と言った。一生やっていけない。確かにそうかもしれない。しかし、どんなことなら一生やっていけて、どんなことならそれができないのか。それは誰にも簡単に判断できる問題ではない。

そうはいっても、会社の部下が突然「会社を辞めてライオンキングをやる」と言い出したのだから、聞かされた上司が「ああ、そうか、今までお疲れさん」とはならないのは、それはそうだろう。誰だって会社の後輩や同僚が「あたし、明日からアイドルになります!」とか言ってきたら「大丈夫か?こいつ」って思ってしまうはずだ。いや、全く思わないほうが異常だろう。

ただ、価値観の多様化が進みに進んで、もはやよくわからないことになってしまっている現代、ソーシャルメディアが「個」の可能性を飛躍的に伸ばした時代。私たちはそんな社会を生きている。望もうが、望むまいが、それはすでに誰もが体感している現実だろう。そんな社会においては、上のような異常ささえも通常と捉えるべきなのかもしれない。隣の席のあの子が明日の朝、ニコ動やYoutubeで超有名人になってないとも限らない。

もちろんプロミュージシャンをやっていくというのは、先に述べたような現代社会においてだって難しい、並大抵ではない努力が必要なものだ。しかし、「個」の可能性が伸びた、という意味合いにおいては、今まで以上にチャンスがあるというのは間違いないだろう。加瀬田さんの時代には、上司の時代には出会えなかった人と出会えたり、見えるはずのなかったものが見えたり、黙殺されてしまうような意見が世界に広がったりするのだから。

上司の時代のふつうと、加瀬田さんのふつう。ぶつかり合う二つのふつう。長期戦になった。それでも「後悔したくない」と、加瀬田さんはその時強く思った。そして四時間後ついに、彼は会社員を卒業することになった。

プロになって

「プロミュージシャンになって一番よかったことは、母に仕事している姿を見せられたことだと思う」。ライオンキングに出演しているときに、加瀬田さんの母親が病気になった。それでも二回、名古屋まで加瀬田さんの出演する公演を観にきてくれた。「転職していなかったら仕事してる姿を見せられなかったと思う。それに一ヶ月間も仕事を休んで母の看病をすることもできなかった」。キューバへ行く前に亡くなった母親の枕元には加瀬田さんのCDが流れていた。

加瀬田さんはキューバへ行き、帰国後、日本でプロとして本格的に活動を開始した。

「『ライオンキング』への出演、そしてキューバでの経験、それらを経て、今は自信を持って音楽をやっています」という加瀬田さん。アマチュアのころは「やらせてください!」的な気持ちがあったという。プロになって変化したのは「お金をもらう」ということよりも、自信と意識がプロになった。

“カリーニョ”によって

キューバの言葉に『カリーニョ』というものがある。

「うまく言えないんですけど、愛情、恋人に対してっているより仲間や家族に対する愛情。それを、自分の家族とキューバという国に教えてもらいました」。現在、実家には父親と祖母が暮らしている。加瀬田さんは忙しくても、月に一度を実家に帰りたいと言った。

「お前の友達はみんな気持ちがいい」。昔母親に言われた言葉だった。

「今でも会社員時代の同期とは仲がいいんですよ。先輩も私のブログを読んでくれていたりして」。無理に何かをしてうまくいったことはない、という加瀬田さん。今いる仲間たちも作ろうとして作ったものではなく、流れの中でできていったものだった。「仲間というのは一緒にいたい人がいるってことだと思うので、コネクションを作る、とか媚を売るっていうのとも違って、周りの身近なところが大切なんですよね」

加瀬田さんは言う「『ふつうの気持ち』でいる」。会社員のときも、ミュージシャンになった後も、彼の根幹にあるものは変わっていない。日進月歩どころか「秒進日歩」を体現したような現代において「変化」というものから逃れることはできない。だからこそ、どれほど世界や時代が変化しようとも、変わることのない、変わることのできないものこそを大切にすべきなのかもしれない。

「会社員」から「ミュージシャン」一見、大きく変わったように見える加瀬田さんの中の変わらない部分、人を愛し、大切にすること。そこから生まれる彼の熱い気持ちたちが、彼の指先を通してラテンのリズムに重なって響く。ライブハウス、ステージの上には「ああこんなふうにかっこよく年をとりたい!」と見惚れてしまうようミュージシャンたちが、今夜も熱い演奏をしている。きっとその音楽には「カリーニョ」があるのだろう、年代の壁なんて簡単に飛び越え、シニア世代から若者まで一緒になって、観客たちは身体をくねらせ、汗だくになって踊っている。

座右の品
友人にもらった詩

キューバに旅立つ友を送る
下弦(うけ)のよに 打楽器王とのむ酒はさめても漢(をとこ)の匂ひとどめり 雄良

【加瀬田 さん略歴】

【略歴】1977年6月12日生 埼玉県行田市(旧南河原村出身/神奈川県川崎市在住 南河原村立南河原小→同中→埼玉県立不動岡高→日本大学生産工学部土木工学科→某大手情報系会社勤務→劇団四季の「ライオンキング」→キューバへ留学(1年間)→現在、10くらいのバンドで活動中【血液型】A型【星座】ふたご座【趣味】時代劇鑑賞【お気に入りスポット】実家(田舎が好き)【好きな食べ物】千切りキャベツ(ブルドック中濃ソース!)【嫌いな食べ物】エビ(形を見れない)【好きなタイプ】芯の強そうな人。有名人では山口智子【嫌いなタイプ】芯の弱い人【座右の銘】生きたいようにいきる【子供のころの夢】電気屋さん

ライブなど、今後の活動は↓
ブログ : http://satoperro.exblog.jp

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2011-10-12-Wed






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