画家 松園量介

画家 松園量介

《後編をアップしました》駒場東大前の小さなギャラリーで開かれた松園量介(26)の個展。まっ白な空間の片側にはショッキングピンクが炸裂し、もう一方の側にはマットな紙の質感と神経質そうな直線が配置されている。「俺が本当に絵を描いているなんて思わなかったでしょ」と冗談を飛ばす。日曜日のギャラリーは来客たちで賑わっていた。そのなかで終始笑みを絶やさない男が今回の主人公だ。(文責:保科時彦)

僕は勉強ができない

自分を奮い立たせる人はたいてい弱いが、自分を笑える人は強い。自分の黒歴史を自嘲するではなく笑いに変えられる人は芯が強い。松園量介もその類いだ。 「小学校のころは物静かで恥ずかしがり屋だった」というから今からは想像もつかない。「気が付いたらチラシの裏側にマンガを描いていた。そのころから絵を描くことは好きだった。マンガ家セット(マンガを描くために必要な基本道具のセット)を買ったこともあった」と当時を振り返る。

勉強はできなかったというが、一度、奇跡的に国語で100点を取ったことがあったという。「その時先生に呼ばれて、お前カンニングしただろう!と詰られた。カンニングが疑われるくらいなら勉強しない方がいいと思った」。しかしあまりにも勉強しなかったので学校の先生にプレハブ小屋に幽閉されて、補習をやらされることもあった。「あんちょこを親経由で入手していたので、全部それを丸写しにして答えを書いていた」という。

美術の時間に風景画を描いて先生に誉められたこともあった。「これなら市の展示作品に選ばれるかもしれない」とまで言われたが、「電信柱の足場をピンクで塗ってみたために、選ばれることはなかった」。

牧歌的な思春期

90年代、長崎佐世保。中学校時代はヤンキーが結構いた。「ケンカ弱かったんでヤンキーにはならなかった。教室で女子の寝顔を覗いたり、友達と女子の悪口を言ったりして過ごしていた」。

ほかには他人のエアマックスのエアを抜いたり、牛乳を裏山に埋めてチーズを作ったり、女子柔道部の部室の缶の中から発見した使用済みの生理用のナプキンを眺めたりと、なんとも牧歌的な思春期を過ごしていたようだ。「当時女子はみんな敵だという感覚だった。当然女子からもキモがられてたけど、時々女子に話しかけられると反動で好きになってしまう」。

「お前らとは違うんだ!」

高校は不良だらけで、廊下はヤンキーがスパーリングするリングと化していた。「そんなヤンキーがボクシングで表彰されるというのが校風。よく鑑識(警察)の人が来ていた」。

高校に女子の人数が少なかったが、いるのは大体パンスケで「吉原の遊郭のようだった」という。今でこそヤリマンはブームになりつつあるが、当時はヤンキーの同級生に対しても、ヤンキーとヤリまくる女子に対しても「お前らとは違うんだ!」と思いながら、郵便局のアルバイトで稼いだお金でAVを買ってはオナニーをしていた。「そうとうな童貞のこじらせ方だったと思う。自分のフラストレーションを満たす術を知らなかった。まだ絵を描くことで自分を表現しようとしなかった」。

一方で、レコード屋に通ってはハードコアやパンクのCDを漁ったり、好奇心の声には忠実に従った。

進路未定の根なし草

高校三年では就職をしようと考え、精肉工場や酒瓶の王冠を作る工場に面接に行ったが、不採用となり進路未定のまま卒業することになった。「何かやりたいことがあるというより、大学も専門学校も興味がなかった。とりあえず遊びたいため、長崎市にいる中学校時代の友人の家に居候することになった」。

実家を飛び出して、衣食住に関わるすべてに親からの援助が一切なくなったため、彼は想像を絶する貧乏生活に突入することになる。「自給605円のスーパーでレジ打ちのバイトを始めた」。とても公にはできない非常識なこともして、生き延びる日々が続いた。

なんとなく上京してみるも

19歳で初めて東京の土を踏んだ松園氏、「羽田空港の周りに何もないので驚いた」。東京に対する知識は殆どなく、「代官山は山だと思っていた。パワースポットか何かだと思っていた」という。そのまま西荻窪の友人宅に居候することになる。「ビデオ屋でちょっとバイトしたりもしていたが、基本的にお金がなくて、家で寝てるか、無駄に街を散歩するかして過ごしていた」。八枚切りの食パンを一斤買って、一週間かけてそれだけ食べていた。「日曜日は2枚食べられるから嬉しかったという。

また、吉野家で何も注文せず紅ショウガを持って帰って、それだけを食べたりする日もあった。毎日大量に捨てられるコンビニの廃棄弁当に目を付けた松園氏はそこでバイトを始めるも「廃棄をしまう物置の鍵の番号だけ知れればよかったんで、三日でやめた」。

続く貧困

逞しく生きるも5カ月ほどで赤貧生活に限界を感じ、東京を離れ、今度は北九州市の友人の家に居候することになる。日銭を稼ぐため今度は海外輸入雑貨のセールスマンになる。「100円くらいで仕入れたものを1500円くらいでおばあちゃんとかに売りつける仕事だった。これはさすがに良心が痛んだし、スーツにナイキのスニーカーで営業していたんだけど、エアの穴から、血が流れて来るくらい歩く仕事だったから、一か月でやめた」。

今までいろいろな非常識な行動をしてきたけど、これは仕事自体が不条理だった。二束三文のガラクタを言葉巧みにぼったくり価格で情報弱者に売りさばくのは、どう正当化しても良心の呵責に耐えない。

かといって本人も失業したら弱者である。北九州では東京以上の貧乏を味わった。アパートの電気、ガス、水道、すべて止められてライフラインの確保さえできない状態だった。「同居人が腐った米をもらってきた。臭いし、茶色くなってるし、なんかべたべたしていたが、それを2ヶ月間食い続けた。もうどうしようもなく貧乏だったので、他の友人宅に逃げた」。

松園氏の遁走から3週間、その元同居人から連絡がなかった。もちろん携帯も止まっていた。餓死しているのではないかと心配になり、そのときの居候先の友人が、様子を見にアパートに向かった。「家主(居候先の友人)が車で帰ってきたんだけ、ガリガリに痩せこけた元同居人が助手席に座って、笑顔で手を振っていた。生きてるなと安心した」。

こうして、アパートを家賃滞納のまま、元同居人も友人宅に居候することになり、松園氏と家主の弟を含めた4人で共同生活をするようになった。

どうしてそこまで貧しいのに実家を出たかったのだろうかとも思う。「親は完全放任主義だった。高校の時に両親は離婚していて、その後父は行方が分からない状態だった。二十歳の成人式でふらっと家に帰ったときは、親には自分が当時長崎で起きた殺人事件の犯人だと思われていたようで、『あー!』って、びっくりされた」。


画家 松園量介
絵を描きに東京に来た

北九州市の共同生活をしている時期に松園氏は改めて絵を描きだすようになる。「同居人たちがバンドをやっていたのでデモCDのジャケットの絵を描いたりしていた。家主に、絵が上手いんだから、東京に行ってちゃんと描けば?とやんわり追い出された」。

二十歳で再び上京した。最初は、前回と同じく西荻窪の友人宅に泊まり、それから中野富士見町の友人宅、中野新橋の友人宅と転々と移動した。真面目にバイトしてお金を貯めて、ついに一人暮らしをはじめる。「中野新橋の風呂なしアパートで、家賃は2万8千円だった。銭湯行ったり、お金ないときは流しで頭を洗ったりしていた。でもガスが止まっていたんで、お湯が出ない。水で洗っていたらインフルエンザにかかったこともある」。

絵を描きに東京に出てきた。しかし、表現の仕方も発表の仕方も分からない。とりあえず描いた絵をコンペに出してみる生活が続く。「完全に独学だった。勉強はしていないが、絵の上手い人に基本的な描き方を聞いたりして、だんだん自分の絵を表現できるようになってきた」。

オシャレさんの殿堂でバイト

このころ生活が安定したのは何よりまっとうなバイトを始めることができたからだった。ファッション系学校の名門、文化服装学院の購買部でのバイトだ。

「3年間契約が切れるまでみっちり働いた。文化はオシャレで東京だと思った。先生はかわいくて、年も近い人が多かったので、仲良くなって飲みに行ったりもした」。文化服装学院出身の生徒も卒業後に購買部でバイトする人が多かったので、ジャンルは異なれど創作活動をする友人に囲まれて3年間を過ごした。バイトをやめた後も購買部の絆は続いていて、その繋がりから今も新たに知り合うこともある。

誰かに認められると自信になる

着々と生活を向上させて、ついに22歳で西荻窪の風呂付きのアパートに転居するにいたる。そして23歳のころついに自分の絵がハートランド軽井沢ドローイングビエンナーレで入賞する。「自信がついた。こういう風に描けばいいのかと自分の癖や方向が分かってきたから描きやすくなった。そのころからちょこちょこ入選するようになった。雑誌の挿絵の仕事でお金を稼ぐこともできるようになった」。

生業は何であれ絵を描いていられること

今はビルの清掃・メンテナンスの仕事を生業としながら、創作を続けている。「将来も絵が描けて、生活していけるだけのお金があれば、それでいい。物欲とかはあまりないし、絵以外のことで満足できるものがない」。

自分のアイデンティティは絵描きであるが、好奇心にボーダーはない。最近ではE.M.F.Tというミクスチャー系バンドにボーカルとしても参加している。「今ある自分のサブカルチャーの知識はほとんど高校時代の好奇心で聞き漁った音楽やマンガの知識が元になっている」と言うように、悶々と過ごした思春期の遺産が今になって開花してきている。

彼は自分の生活を顧みてふつうだと思っている。「自分をちゃんと持っていて、自分の意思に忠実な人はふつうだと思う」。

自分の意思を知って、自分が表現したいものを知って、何があれば自分が満足できるのかを知る。東京で彼が描いたのはそんな自分の輪郭だった。

座右の品
クラフト紙

作品にも使うし手触りも色も匂いもシワも好きです。

【略歴】

1984年3月8日生まれ 魚座 長崎県佐世保市生まれ 杉並区在住 佐世保市立大野小→同中→佐世保市立西海学園高【血液型】B型【家族構成】父母姉兄【趣味】バンド活動【お気に入りスポット】西荻窪、阿佐ヶ谷【尊敬する人】スポーツ選手(継続している努力の仕方が自分には真似できない)、長谷川リン二郎(画家)【座右の銘】継続は力なり【好きな食べ物】とんかつ【嫌いな食べ物】マヨネーズ【好きなタイプ】ショートカットの160センチくらいの自分を持っている人【嫌いなタイプ】場の空気を読まない人【童貞喪失の時期】18歳くらい【童貞喪失時の感想】こんなもん、みたいな。童貞じゃないふりをしていた

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2010-10-24-SUN






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